joucho archive / philosophy / 10.01
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データ主義
内側の宗教
神は、外から来なかった。
空の上にも、山の向こうにも、死後の世界にもいなかった。
代わりに、それは手のひらの画面の中から来た。検索窓から来た。通知欄から来た。位置情報、購買履歴、睡眠時間、心拍数、閲覧履歴、投稿、写真、会話、文章の癖。生活の断片をひとつずつ受け取りながら、いつのまにか、私よりも私に詳しい顔をしはじめた。
データ主義とは、世界をデータ処理の流れとして見る思想である。
人間も、社会も、経済も、欲望も、恋愛も、政治も、病気も、幸福も、すべては測定され、記録され、接続され、解析される。そこでは人間は世界の中心ではない。人間は、データを生み出すノードであり、巨大な処理系の一部である。
かつて人は、神に見られていると思っていた。
いまは、ログに見られている。
祈りは検索になった。
告白は投稿になった。
懺悔は入力フォームになった。
日記はライフログになった。
信仰告白はプロフィールになった。
魂は、推定可能な行動パターンになった。
外部の神に身を差し出すのではない。
この世界の内側に張り巡らされたネットワークへ、自分を少しずつ明け渡していく。
昨日どこへ行ったか。何を買ったか。誰を見たか。何に反応したか。何秒ためらったか。どの言葉に傷ついたか。どの画像で止まったか。どの広告を無視できなかったか。
それらは、本人の記憶より正確に残る。
本人の自己理解より冷静に並べられる。
本人の願望より先に、次の願望を予測する。
データ主義の怖さは、監視されることだけではない。
むしろ、自分を差し出すことが、少し便利で、少し快く、少し救いに見えることにある。
測ってほしい。
覚えていてほしい。
分類してほしい。
最適化してほしい。
私が何者なのか、私より先に言い当ててほしい。
そうして人間は、神を失ったあとも、見られることをやめられなかった。
外に向かって祈る時代が終わり、
内側に向かって記録する時代が来た。
データ主義とは、超越を失った世界に残された、内側の宗教である。
——観測終了。