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身体性認知・現象学
身体こそ意味の発生源
身体から出たい。
その願いは、よくわかる。
腹が減る。
眠くなる。
疲れる。
欲望に振り回される。
病気になる。
老いる。
死ぬ。
身体は、精神の速度を落とす。
思考を邪魔する。
予定を崩す。
誇りを傷つける。
人を惨めにする。
だから、身体から出たい。
しかし、反対側から声がする。
身体がなければ、意味も生まれないのではないか。
空腹があるから、食べ物に意味がある。
疲労があるから、休息に意味がある。
痛みがあるから、他者の痛みも想像できる。
死があるから、時間は切実になる。
性欲があるから、倫理が必要になる。
老いがあるから、若さはただの状態ではなくなる。
手があるから、物に触れるということが起きる。
足があるから、場所へ行くということが起きる。
身体は、精神の邪魔ではない。
精神が世界に接続される場所である。
身体性認知や現象学の反論は、脱身体の思想史の最後に置く必要がある。
認知は脳だけで起きているのではない。
意味は記号だけで立ち上がるのではない。
世界は頭の中にあるのではない。
身体が世界に触れている。
世界が身体に返ってくる。
その往復の中で、意味が発生する。
脱身体は、純粋な精神への憧れである。
しかし、純粋になりすぎた精神は、何に触れるのか。
痛まない精神は、痛みを知っていると言えるのか。
疲れない精神は、休息を知っていると言えるのか。
死なない精神は、時間を知っていると言えるのか。
欲望を持たない精神は、倫理を必要とするのか。
身体から出たいという願いは、身体から生まれている。
ここに、脱身体思想のもっとも大きな逆説がある。
身体は枷である。
しかし、情緒の発生装置でもある。
身体から出たい。
けれど、その出たさを感じているのは、身体を持った者だけである。
だから最後に、身体へ戻る。
戻りたくて戻るのではない。
戻らざるを得ないのでもない。
そこにしか、情緒が立ち上がらないからである。
——観測終了。