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プラトンを知らないプラトニズム
身体との不和が、思想以前の脱身体を生む
人はプラトンを知らなくても、プラトニズムを生きることがある。
魂と身体の二元論を学んだわけではない。
イデア論を読んだわけでもない。
哲学史の中で、身体が低く、魂が高いものとされた経緯を知っているわけでもない。
それでも、身体との関係がうまく結べないとき、人は自然にこう感じる。
本当の私は、この身体ではない。
この顔ではない。
この皮膚ではない。
この神経ではない。
この性徴ではない。
この痛みではない。
この眠れなさではない。
この落ち着かなさではない。
この肉体に閉じ込められている何かが、本当の私である。
これは思想ではない。
もっと手前の感覚である。
生活の中に現れる、名づけられていない脱身体である。
頭痛が続く。
神経がざわつく。
皮膚が気になる。
顔が嫌になる。
身体の輪郭が重い。
眠れない。
起きられない。
心臓が勝手に速くなる。
息が苦しくなる。
じっとしていられない。
鏡を見るたびに、自分ではないものを着せられている感じがする。
そのとき、身体は自分の味方ではなくなる。
身体は、自分を運ぶものではない。
自分を閉じ込めるものになる。
ここで、プラトンを知らないプラトニズムが生まれる。
本当の私は、もっと澄んだ場所にいるはずだ。
本当の私は、この肉の重さから離れているはずだ。
本当の私は、この顔や体質や性別や神経の中に押し込められるべきではなかったはずだ。
その感覚は、しばしば言葉にならない。
だから、行為になる。
髪を変える。
服を変える。
顔を変えたいと思う。
皮膚に印を入れる。
穴を開ける。
薬で神経をずらす。
酒で意識を濁らせる。
眠剤で時間を飛ばす。
身体を鍛える。
身体を削る。
身体を黙らせようとする。
身体から出たいのに、身体に触るしかない。
ここに脱身体の逆説がある。
身体を否定する願いは、身体への介入として現れる。
身体を脱ぎたい願いは、身体を書き換える行為になる。
身体から逃げたい願いは、身体の表面に刻まれる。
プラトンを知らないプラトニズムとは、高尚な思想ではない。
身体に耐えがたさを抱える者が、思想以前に到達してしまう感覚である。
この身体ではない。
この身体では足りない。
この身体では違う。
この身体が私を裏切っている。
この身体が私を間違った場所に閉じ込めている。
そう感じたとき、人はもう、哲学を読まずに脱身体の入口に立っている。
重要なのは、その感覚を美化しないことである。
身体から出たいという願いは、切実である。
しかし、身体を傷つけることが救済になるわけではない。
身体を消すことが、自己の回復になるわけでもない。
それでも、身体から出たいという願いは存在する。
それは思想書の中だけではなく、頭痛、痒み、眠れなさ、鏡、皮膚、心拍、血縁、整形、薬、酒、傷の周辺に現れる。
プラトンを知らないまま、人は身体の外に本当の自己を想像する。
そしてその想像は、いつも身体の中で起きている。
——観測終了。